セザール・フランクについて(その2)

今日の天気: 晴れ時々曇り
最高/最低気温:7℃/-3℃
3月もあと一週間!
早い!
もう少し待ってくれ~(笑)
明日からはもう、冬に逆戻りは無いと思います。
例年であればそういう感じで行きます。

昨日はなんとまぁ、行くべきじゃないところに行ってしまいました。
手帳、何度も確認したはずなのですが、どうやら先週のスケジュールを見てたらしい。
これは、もう、頭がファルベのコンサートのことで頭が一杯で自分の時間軸が分からなくなってきている証拠。
そして、今日は眠り病にかかったみたいに睡魔に襲われてました。

さて、セザール・フランクについて、書籍「セザール・フランク」からの抜粋です。
物凄く古い本なので、文章が難しいくてなかなか進みません。
訳にもよるのかもしれません。
なので、ところどころ抜粋です。

この本の著者は、フランクのお弟子さんらしいです。

交響楽の巨人ルトヴィヒ・ファン・ベートーベンは「荘厳ミサ曲二短調」を自分の最も完全な傑作とみなした。
これは如何にも当然な事である。
ところで、ベートーヴェンがこの作品の草稿を完成したのは、1822年12月10日であるが、丁度この日に一人の子供が世に生まれ出た。
この子供こそ宗教音楽と交響楽との両分野に於いてこのボンの巨匠ベートーヴェンの真の後継者となるべく運命づけられていた。

…..(中略)
フランクはベルギーのワロン地方のリエージュで生まれ、そこで幼少年時代を過ごされた。
この土地は人情も言語も、その景色も不思議な程フランス的なところである。

ということで、著者はフランクの芸術性をこういう冒頭で言うように、ベートーヴェンと、フランス的なところが混じり合ったものだと言いたいのかもしれません。
そして、著者はフランク作品について、色彩表現は無く、ひたすら内面に向かう精神世界からできている、と言います。
それは、欠点でもあるが、だからこそ作品が優れたところでもある、と。
優れた対位法で書かれた作品が多く、当時はこの作風の受け入れる隙がなく、同じ時代の作曲家たちからも酷い評価をされていたらしいです。

12才でリエージュの音楽学校の過程を終える。
15才でピアノの競争試験(コンクールのこと?)でフンメル作曲「協奏曲イ短調」で優れた演奏をしたが、その後の初見演奏の試験ではあてがわれた曲を3度下に移調して失錯も躊躇もなくやってのけた。
これは競争試験に規則では許されないことで、当時の音楽院長老ケルビーニは憤慨して、当然1等賞を与えるべきだったにも拘わらず、授けるのを拒んだ。
しかし、彼は不公平ではなかった。
フランクに特別賞として枠外の「大名誉賞」を与えるよう提議した。

・・(中略)
即興演奏の天才であった。

また、フランクの音楽人生の中では、こういった世間との不一致や、不運が重なり、才能を認めてもらえない時期が長く続いた。
フランクが今の世の中に生まれていたら、きっととても注目されていたでしょうね。
しかし、その時代だったからこそ、こんな深い音楽が生み出せたとも言えますが。
ただ、フランクはいつも誠実に音楽や教育をしてきたので、生徒さんたちにはとても信頼されていたのですね。
フランクの作品の数々を発表する場を設けたりするくらいで、フランク自身は自分の名誉とかまったく無頓着だったようです。
本当に音楽を愛していて、純粋な方だったんですね。

ユージューヌ・及びテオフィール・イザイの為に作曲した「ヴァイオリン奏鳴曲」、「交響曲二短調」、「弦楽四重奏曲」及び3つの「オルガン衆讃曲」である。
交響曲については、まったく理解されなかった。
ヴァイオリン奏鳴曲はイザイが世界中至る所に携えて行って演奏した。

しかし、晩年はようやく4つの作品で静かに有名になりました。
しずかに、いつの間にか有名になったって、すごいじゃないですか?!

「ヴァイオリン奏鳴曲」とありますが、所謂ソナタです。
しかし、このソナタのタイトルには「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」とあり、ピアノが先に書かれてあるところから、この曲はやはりピアノが主体の作品とも言えますね。
そして、このソナタがヴァイオリンで初演されたあと直ぐにフルート用にも編曲されました。
今では、チェロ用、ピアノソロ用もあります。

ざっとこんなところでしょうか?

拾い読みなので、補足があれば、また記事にします。